『1分 | mariuntain's blog 〜海、ときどき山〜』を読んで
何かを読ませていただいて、何か書く。
(筆者様、記事の感想を期待されていたらすみません、大体の内訳は、感想1割、脱線9割くらいです)
ようこそブログのカテゴリーを見てみる。
これにしよう。
◯要約
1分を大切にしたい。(終わり)
シンプルな記事だった。けど、なぜか元気になる。「ブログを読んでくれる方が、すこしでも元気になってくれるように書きます」、とブログ紹介で筆者は書いているけど、そういう心遣いは短い文章にも現れるんだと思う。
疲れているなと感じる人、原文へ。
◯調べたこと
記事の中に綺麗な枝の写真が出てくる。木の枝をあまり意識しない毎日なので、調べてみた。
・木の枝の法則
「木の枝 規則性」で検索して、一番上に出てきた記事を見てみる。
木の枝の枝分かれには法則性がある。レオナルド・ダ・ヴィンチが観察を通して発見したんだそうだ。
その法則性とは、2つに分かれたら、その先もずっと小枝になるまで2つに分かれ続ける。3つに分かれたらその先も3つに分かれ続ける、というもの。
まじか?木の枝って、分かれ方そんな決まってるのか?
「今まで2つにしか分かれてこなかったけど、今日は奮発して4つに分かれちゃうぞ」みたいなことは木はできないわけ?
全然、枝を見ていないから、真偽のほどがわからない。
しばらく木の枝の写真をネットで眺めてみたが、基本2つに分かれているように見えるけど、3つに分かれているところもあるような、けど、これは近くで見たら、2つに分かれているのが、近くに2つあるから3つに分かれているように見えるのか?
軽いゲシュタルト崩壊を迎えた僕は、引用元を再度眺めた。
『木をかこう』という本で知った。
この『木をかこう!』という本は存在するのだが、リンク先が別の本になっていて面食らったので、読んでいるあなたも上のリンクをちょっと押してみてほしい。
ネット上のリンクが常に正しいものと繋がっているという保証はない。大切なことを思い出させてくれた。
大切なことを思い出させてくれたのは良いのだが、実際のところ、真実はどうなんだ?と思って、『木をかこう』のamazonのレビューを眺めたが、ここに書いてあることを真実とする根拠は何だ?という別の迷宮に入っただけだった。
本に書いてあるから正しい保証はないし、記事の中のリンク先が間違っているから、記事の内容がすべて間違っているわけでもないし、amazonのレビューだって、読み間違えた人が書いているかもしれない。
レオナルド・ダ・ヴィンチが見てきた木の分かれ方が、すべて同じ法則に則っていたとしても、今現在、例外が生まれていないという保証はどこにもない。
人類が到達していない場所にある木は、2つに分かれた後は、3つに分かれ、次は4つに分かれているかもしれない、という結論(?)に至った。
もう少し、自分の目で木の枝を眺めてみようと思う。
◯考えたこと、思ったこと
筆者の記事を読ませていただいて、1分を楽しむためには、その1分でやることを決めてやるということが大切なんだと思った。その決定と行動によって、1分の間、自由を味わうことすらできる。
なるほど。しかし、一つ疑問が浮かんだ。
「ただぼーっと1分過ごすことと、この1分をぼーっと過ごそうと決めてから、そうすることに違いはあるのか?」と。
なので、やってみた。ぼーっと、時計の秒針が1回転するのを眺めてみるのだ。
あなたもやってみてほしい。僕は10秒でやめた。10秒ですらも長いと感じた。
不思議だ。ブログをどんなふうに書こうとあくせく考えていると、時間はあっという間に走り去っていくのに、こうやって僕が立ち止まると、時間は急にゆったりと歩みを進めるようになる。
この現象から言えることは何なんだろう?
しばらく考えてみたが、わからなかった。それらしい理屈をつけて、形だけ整えることはできるけれど、自分が最後に納得しない。
とりあえず、ぐるぐると考えていることに気づいたら、一度時計の秒針を眺めることに決めた。
◯最後に
筆者様、素敵な考え方を紹介してくれてありがとうございました。元気を頂きました。また紹介して下さった写真のおかげで、一つものの見方が変えられたように思います。筆者様のあたたかな想いがより多くの人に届くことをお祈りいたします。