『100日後にインフラエンジニアになりたい女子(11日目)|Shiratama3のブログ』を読んで
何かを読ませていただいて何かを書く。
ようこそブログカテゴリーを眺める。
これにしよう。
◯要約
ある行動をしているという自覚が無い時、その行動をやめるよう注意をされても、守るのは難しい。自分に対しても、他人に対しても、どうしたら求める状況を達成できるかを考えて、注意するようにしようと思う。
少しは、要約に慣れてきたのかなと思っていたが、今回は難しく感じた。筆者の言葉は丁寧で、思考の流れがわかりやすい。けれど、要約しようとすると、そのわかりやすい流れを上手いこと捉えられない。
ということで、原文へ。
◯調べたこと
記事冒頭、SNS上でよく言われるという言葉が出てくる。
『子どもは脳の発達上、否定語の理解ができないから、「走らないで」ではなく「歩こうね」と伝えたほうがよい』
筆者も疑問に思っているし、僕も疑問に思った。
さすがに、『子ども』というは主語が大きすぎるし、『できない』という述語も強すぎるんじゃないか、と。
ということで調べた。
ネットで調べていると、『否定語はNG!...』という記事が出てきて、少し笑った。
もうちょっと探すと、同じように疑問を持った人が調べてくれている。ありがたい。
「シロクマのことを考えないでください」というフレーズで、この現象を実証している論文を見つけました(Wegnar et. al. 1987)。 この実験は通称シロクマ実験と呼ばれています。
すなわち、この「想像しないでください」と言われると逆に想像してしまう現象自体は、実は科学的には証明されていたのです。
引用元:「脳は否定形を理解できない」の科学的根拠を解説 | ヌローライフ
引用元はいい記事で、ここで話が終わるわけではなく、更に深堀りして調べている。気になる方は引用元へ。
SNS上の言説は、このシロクマ実験に、色々と装飾を加えたものかなと思う。
まあ、そうよな。子どもが、否定語を理解できないとしたら、ダチョウ倶楽部の「押すなよ、絶対に押すなよ」が子どものうちは、伝わらないということになる。大人になってよかった。いやそれくらいなら、別に大人にならなくてもいいか。
あと、火事の時の「おかしも」とか、全面的に見直しになってしまうし、「押さない」を肯定の形で注意するのが難しいし…。
しょうもないことを書いてしまった。立派な大人になったものだ。
◯考えたこと、思ったこと
筆者の無自覚なことを修正することはできないという気づきに、確かにと思った。
しかし、それに気づいたところでどうしようもないなとも思った。結局、それに気付くかどうかは、他人頼りだと思う。自分で気付くとしても、まず他人の様子を見てから気付くんだと思う。
その事を考えた時、他人がいなければ、自覚というものは存在しないんだなと思った。自覚というのは、文字が与える印象とは裏腹に他人のためにあるものだ。
更に考えてみると、他人がいなければ、自分の存在にも気付けないのかもしれないと思った。他人が自分を見る目で、自分を見ているということも多いからだ。つまり、他人から見て、僕はこういう風に見えているというのが、自分の自己認識になっている時がある。
いや、しかし、その他人というのも、自分が認識するから存在するものであって、自分が認識しないことには、存在しないものだ。結局、自分が認識した他人によって、自分を認識している?無限ループ。
いつも通りわけが分からなくなってきたので、考えるのをやめた。
自分が自分のことを自覚していないことを自覚させられた。
◯最後に
筆者様、気づきを共有してくださってありがとうございました。色々と考えさせられました。未経験分野での就職活動で、大変かと思われますが、筆者様の努力が実を結び、望み通りのキャリアを進んでいけることをお祈りいたします。
『Vtuber初めての配信を終えて|hoyonco’s diary』を読んで
何かを読ませていただいて何か書く。
今日もようこそブログを眺める。
これにしよう。
◯要約
Vtuberになってゲームをするという目標を達成した。上手く行かなかった部分もあるけれど、やってみたからこそ、わかること、楽しかったという経験がある。(終わり)
前を向いて頑張っていこうとする姿勢が、今回の記事だけでなく、ブログの記事からも伝わってくる。
力をもらいたい、という人は原文へ。
◯調べたこと
いつの間にか通り過ぎてることを調べておく。案の定、記事とは、あまり関係ない。
・YouTubeの由来
テレビを意識していたのか。あまりにも当たり前の存在すぎて、考えたこともなかった。けど、広告で収入を得るというやり方は、言われてみれば、確かにテレビそのものだ。
では、創始者たちはテレビ関係者だったのかと、Wikipediaを眺めてみると、そうではない。面白いものだなと思う。テレビ番組を作る側の人間よりも、人がテレビに対してどのように関わりたいかという思いを理解していたのは、彼らだったのだ。
◯考えたこと、思ったこと
ふと考えた。自分だったら仮想世界でやりたいことはなんだろう?
やはり、ブログを書きたい。さすがに嘘。
全然浮かんでこないな。
空を飛びたいとも、過去に行きたいとも、未来に行きたいとも、物語の世界に入りたいとも思わない。強い望みがない。
けど、現実を好きなように変えられるという条件なら、やりたいと思う。ちょっと飛んで、脚立がなくても上にあるものを取りたいし、過去も未来も塗り替えたいし、ひどい現実を物語にしたいし、素晴らしい物語を現実にしたい。
この差が示すのは、僕が現実に軸を置いている、というか、現実に縛られているということなんだろうな。どこに行っても、何をしても、結局は、現実に引き戻される。
それなら、何をしても、どこに行くのも意味がないんじゃないか、という考えが頭の中で巣食っている。
また、たらたらと悲観的なことを書いてしまったが、この記事に一つ希望があったと思う。
筆者がVtuberと実況者の違いはなんだろうと疑問に思ったことだ。僕は、筆者がVtuberになって実況をしようと考えたのは、ありのままでは実況できないと思ったからだと思う。
でも、Vtuberに実際になってみると、実況をすることができた。そして、それが実況者として実況することとほぼ同義だと感じたから、その差異が気になったと思うのだ。
非日常が現実を変えることがある。実際には、現実が変わったわけでないけれど、認識が変わっている。つまるところ、自分が変わっている。
現実が確実にあり、最後には引き戻されるとしても、経験や行動でそのあり様は変えていけると思えた。
◯最後に
筆者様、貴重な体験をブログに書いてくださりありがとうございました。自分一人では、考えることはなかったであろうことを、考えることができました。筆者様の経験や知見が、より多くの人に届くことをお祈りいたします。
『おいしいものをちょっとだけ|きれいな部屋に住みたい』を読んで
何か読ませて頂いて、何か書く。
こちら。
◯要約
「おいしいものをちょっとだけ」という食べ物の楽しみ方は、素敵で上品な生活の末にたどり着くものだと思っていた。けれど、ドーナツを2つ食べたときに、私は、自分がそういう志向に近づいていることに気づいた。
わかりやすい文章だと思った。題材が、食べ物の話で共感しやすいというのもあるだろうけれど、筆者の経験や思考が丁寧に書かれているのが、わかりやすさの一番の要因ではないだろうか。
気になる方は原文へ。
◯調べたこと
またいつの間にか、あまり考えずにさらりと通り過ぎているものがあると思ったので、調べておく。
・食べ放題について
最もシンプルでわかりやすいのはファミリーレストラン等にある「ドリンクバー」です。通常、ドリンクバーではだいたい200~300円ぐらいの価格ですが、原価はせいぜい5~15円程度だと言われています。
引用元:"食べ放題"はなぜ経済学的におトクでないのか | (2/3) | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる”
引用元を眺めると、食べ放題で店が儲かる仕組みがわかりやすく書かれている。当たり前だと思うけれど、いざとなってみると、上手いこと説明できないので、勉強になった。
ポイントは、食べ物を提供するためにかかるコストというのは、食べ物の量に比例しないということである。コストに対して、十分なお客さんを集めることと価格設定を適切にすることができれば、売れば売るほどどんどん儲かる。
食べ放題でなくても、普通の商売でもそうだ。仕入れよりも、売上を高くすれば、儲かる。
「当たり前じゃん。わざわざ何言ってるの?」と言われそうだ。しかし、僕は子どもの頃から、食べ放題というものに触れてきたけれど、その仕組みが経済の基本的な仕組みに則っていることには気づかなかった。
これに気づいて、一度考えてみた人が、食べ放題みたいに音楽を聴き放題にすればいい、書籍も読み放題にしたらいい、という風にしてサブスクリプションと言う事業を開拓していったんだと思う。
コロンブスの卵的発想には、「なんで気付けなかったんだよ」という若干の悔しさを覚える。同時に、日々の生活をいかに無意識に送っているかを気付かされる。
◯考えたこと、思ったこと
この記事は、「ドーナツを2つ食べた。食べすぎた、なんでこんなことしてしまったんだ。ドーナツを食べる前の私に戻りたい」みたいに書くこともできると思うのだ。というか、そう考える人もいると思うのだ。
けれど、逆に筆者は、自分には縁遠いと思っていた上品さに近づいているという風に肯定的に捉えている。
同じ現象から、違うことを考えることができること、当然だけど、やはり面白い。
他人だけじゃない。自分だってそうだ。筆者が年齢を重ねて「おいしいものをちょっとだけ」という言葉に対する距離感が変わったこともそう。
同じことを色々な見方で見られる、自分も少しずつ変わっていける、この記事を読んで、そういう風に思えた。
◯最後に
筆者様、素敵な文章をありがとうございました。現状の中に肯定できるものを見つけていこうとする姿勢が素晴らしいなと思いました。ブログでの発信が、筆者様にとって有意義なものになることをお祈りいたします。
『興味ない癖にスター押すんじゃねえ。無責任な意思表示はノイズだ。はてなスターの濫用に対して物申す | ぼっちのおくち!』を読んで
何かを読ませて頂いて何か書く。
ようこそブログを散歩。
これだ。
◯要約
興味も関心も無いくせにはてなスターを押すな。気持ちわりいんだよ。(終わり)
主張自体は、タイトルで終わっていると言っても過言ではないのだが、論理の運び方とか、書き方とか、すごい表現力だ。名文だと思う。
僕の要約では、そんなことは絶対伝わらないので、原文へ。
◯考えたこと、思ったこと
恐ろしいのは、このブログの内容で、はてなスターを押す人間もいるということである。
このブログの記事を読んで、それをするか?と思ったけど、少し考えると、答えに行き着く。記事を読まずに、ただスクロールして、はてなスターを押しているのだ。(違ったらごめん。ただ、実際にはてなスター押した人ののブログを訪ねてみてそう思った。)
読まない人間には、何を書いたところで伝わらない。この記事は一番伝えたい相手に伝わっていない。そして、この記事をちゃんと読んで、いい文章だな思った人間は逆にはてなスターを押しにくく感じるだろう。
表現は難しい、と改めて思わされた。伝えたい人に伝えたい内容を伝える。伝えたくない人に伝えたくない内容を伝えない。言葉にすればそれだけのことなのだが、伝わり方は相手ありきだ。どれだけ努力をしてみたところで、最後の最後は相手に託さざるを得ない。
表現に期待はつきものであり、期待に期待外れはつきものであり、期待外れに失望はつきものであり、失望は期待と逆の感情である。
だから、表現を続ける人間というのは、失望と戦い続ける人間なのかなと思った。敗色濃厚。
◯最後に
筆者様、思いをありのままに語っていただきありがとうございました。はてなブログを始めた人が抱えるであろう失望を的確に表現していると思います。筆者様がブログのに求めたものが、実現される日が来ることをお祈りいたします。
『不登校園児でした | tysojの日記』を読んで
今日も、なにか読ませて頂いて何か書く。
ようこそブログをまた歩く。
これにしよう。
◯要約
私は、幼稚園に行くのが嫌だった。私が幼稚園に行っている間に母がどこかに行ってしまうのではないかと不安だったのだ。そんな私に母がしてくれたことを今でも感謝せずにはいられない。
いい文章よな。
筆者のお母さん、一体何したの?という人は原文へ。
◯調べたこと
今日も調べる。
・不登校とは
不登校とは,何らかの心理的・情緒的・身体的あるいは社会的要因・背景により,子どもが登校しない,あるいはしたくともできない状況にあること(ただし,病気や経済的理由によるものを除く)をいいます。
引用元:「不登校の早期発見・対応」
https://www.yokkaichi.ed.jp/e-center/html/futoukou_tebiki/images/01-09.pdf
引用元では、不登校の原因を大きく5タイプに分けて、実際にはそれらが複合しているケースも多いと書いている。そして、以下のようにまとめている。
何に起因した不登校であるかを見極めることは,対応する上で大切なことですが,原因探しをすること以上に,子どもが不登校という症状で,何を訴えようとしているのかを考えていくことが重要です。
引用元:「不登校の早期発見・対応」
https://www.yokkaichi.ed.jp/e-center/html/futoukou_tebiki/images/01-09.pdf
いいこと書いてるなと思う。
もし自分の子どもが不登校になって、自分の子どもがいじめられているとわかったら、いじめっ子を突き止めて、排除しようとするかもしれないけれど、もしかしたら、子どもが望んでいるのは、復讐ではなく、ただの平穏かもしれない。
問題が起こった時、それを解決しようとするのは自然な思考だと思う。けど、問題を表現として捉えたとき、その問題は必ずしも解決する必要がないということがわかると思う。それが表現であるなら、するべきは解決ではなくて、理解ということになる。
時に応じて、思い出したい考え方だと思う。
・母親について
動物と母親について調べると、色々な子どもの育て方というか、生き方を知ることができる。
クオッカの母親は、野生のディンゴと遭遇すると、自分が逃げるためにどのような行動を取るか想像できるだろうか? そう、なんと母親は自分の子を投げ捨てるのだ
引用元:自分はひどい母親と落ち込むあなたへ 動物界のさらにひどい母親たち(2/2) - CNN.co.jp
コブハサミムシのように、母虫の体が幼虫の最初の餌になるものもあります。
引用元:
閉経し、生殖能力を失ったあとも長く生き続ける動物はたったの6種類。ヒトと5種のハクジラだけだ。
引用元:閉経した母親シャチが守るのは息子だけ、娘や孫は守らず - 日本経済新聞
人間で同じことが起こっていたら、引いてしまうような内容が、探せば出てくる。そして、これらは環境への適応や、種の繁栄への選択の結果、起こっているということが色んな記事で決まり文句みたいに現れる。
それが事実かどうかを判定できる情報を毎度のことながら、持っていないのだけれど、この考え方もある種の救いだと思う。
一見、全然だめに見えるものが種の繁栄の一助になっている可能性もある。そう思うと、少しは色んなことを許せる気がする。
◯考えたこと、思ったこと
筆者の抱いていた不安は、全然的はずれなものじゃないよな。実際のところ、ありえる話だ。学校や職場に行っている間に、大切な人がどこか遠くへ行ってしまい、もう二度と会えなくなること、世の中には嫌というほどあるだろう。
子どもの頃には、自分の頭の中にも筆者と同じ不安があったはずなのに、それがいつの間にか消えてしまっていることに気付かされる。その不安は、どこまで行っても解決していないはずなのに。
この状態は成長し、大人になったということなのか。ただ単に想像力が欠如し、感覚が鈍くなっただけなのか。それとも、大人になるということが、想像力や感覚を鈍らせる過程なのか。
だとするなら、今感じている不安や焦りもいつの日か恋しくなる日が来るのかもしれない。必死になって手放したものを後から、拾い集めようとするみたいなことをするのかもしれないし、もうすでにそんなことをしているのかもしれないなと思った。
◯最後に
筆者様、お母様との素敵な思い出を紹介してくださって、ありがとうございました。日々の生活の中で、いつの間にか薄れていた感覚を思い出すことができました。筆者様の探す答えが見つかる日をお祈りいたします。
『ITパスポートの勉強備忘録 ストラテジ系2回目 | さくひめ勉強備忘録』を読んで
何か読ませていただいて、何かを書く。
ようこそブログのカテゴリーを探す。
これにしよう。
sakuhime7-benkyo.hatenablog.com
◯要約
資格の勉強で、同じ単語を色んな資料をもとに調べていたら、資料ごとに、同じ言葉なのに雰囲気が違っていて、気になった。そのことを資格を持っている友人に相談したら、その勉強法はやめたほうがいいと言われた。一度友人に言われたやり方に従ってみることにした。(終わり)
僕もその勉強法はやめておいた方がいいんじゃないかなと思った。その作業が楽しいならいいけど、そうではないならば、効率よくやるのが吉だと思う。
じゃあ、どうしたらいいのさという人は原文へ。
◯調べたこと
知ったふりで通していたことをちょっと調べてみる。
そもそもパスポートって何だっけ?ついでに、親戚みたいなビザとは一体。
・パスポートとビザ
パスポートは、自分の国籍がある政府が発行するもので、海外滞在中は唯一の「身分証明書」となります。それに対して、ビザは、渡航先の国が自国の安全などを守るために、事前に渡航者の身元を確認、審査して渡航先の国が発行するものです。
日本国籍を持つ人は、ビザ不要で渡航できる国が多数ありますが、滞在期間やパスポートの残存日数などの条件は国によって違うため、渡航する際は、事前によく確認しましょう。
引用元:海外旅行にビザ(査証)は必要?必要な国・不要な国とは? | 海外旅行お役立ち情報 | 【公式】損保ジャパン
なるほど、発行元が違うのか。
あと、どこの出身かでビザが不要だったりするのか。生まれた場所で対応を変えるというのは、普通に行われていることなんだなと思った。
僕が平和ボケをかましていられるのは、そういう水際のルールで守られているからなんだと気付かされる。
国には、よそ者を拒否することが認められているという事実に、日本が一つの国で良かったと思わされる。国内なら、行きたいところに、行きたいときに、自由に行けるからだ。たとえ地続きであったとしても、国が違ったなら「お前のことは信用できないから、来るな」と言われても、認めるしかない。
・資格勉強の方法
自分の考えている資格勉強の方法にも、間違っているところ、改善点はないか、色々ネットを歩き回ってみた。
自分のやり方は、概ね次のサイトと同じだと思う。
自分なら、ここに『「取りたい資格 語呂合わせ」で検索する』を加えると思う。
ざーっと他のサイトを見渡してみたけれど、「いきなり問題を解く」方法が勧められているようだ。同意。
残念ながら、目から鱗が落ちるようなアイデアは見つけられなかった。読んで下さっている方、これがいいよ、っていうのがあったらコメントで教えて下さい。
報酬として、はてなスターをつけます!安い。
◯考えたこと、思ったこと
筆者の友人の言っていることが、自分の考えと一致しているし、自分もその方法で資格試験に受かったことがあるから、友人のアドバイス通りに進めるのがいいと要約のところに書いた。
けど、本当にそうだろうか。人のものの覚え方とか、認識の仕方は本当に色々だ。ある程度のデータをもって、ネットでは資格勉強のポイントとして示しているはずだけど、それは筆者にも当てはまるのか?
僕もある程度の成功体験をもって、その方法を正しいと判断しているけれど、それでも資格の勉強はしんどいと思う。精神修行だと思っている節もある。だから、もっといい方法があるなら、すぐにそれに乗り換えたいと思っていて、今回も探してみた。見つからなかったけれども。
勉強を始めるのは、いつからでも遅くはない、とよく聞くが、自分にとっての最高の勉強法に出会うのは、早ければ早い方がいいと思う。頭に入ってこない、楽しくないでは勉強する気も起きないだろうから。
振り返ってみると、勉強方法を学校で意識的に習った覚えがない。学校側は、音読とか、グループ学習とか、レベル別学習とか、色々な方法を試していたとは思う。けれど、それが自分にとって、どうなのかを評価することはあまりなかったと思う。
学校は、集団生活を勉強する場だと言われてしまえば、それまでなんだけれど、個人が自分に合う勉強方法をもう少し模索したり、主張したりできる場であっても良いんじゃないかなと思う。
◯最後に
筆者様、記事を書いてくださってありがとうございました。筆者様の勉強に対する考え方をもとに、いつの間にか当然としていた勉強方法について改めて考えるきっかけとなりました。筆者様の勉強が実を結び、勉強してきてよかったと思える日が来ることをお祈りいたします。
『1分 | mariuntain's blog 〜海、ときどき山〜』を読んで
何かを読ませていただいて、何か書く。
(筆者様、記事の感想を期待されていたらすみません、大体の内訳は、感想1割、脱線9割くらいです)
ようこそブログのカテゴリーを見てみる。
これにしよう。
◯要約
1分を大切にしたい。(終わり)
シンプルな記事だった。けど、なぜか元気になる。「ブログを読んでくれる方が、すこしでも元気になってくれるように書きます」、とブログ紹介で筆者は書いているけど、そういう心遣いは短い文章にも現れるんだと思う。
疲れているなと感じる人、原文へ。
◯調べたこと
記事の中に綺麗な枝の写真が出てくる。木の枝をあまり意識しない毎日なので、調べてみた。
・木の枝の法則
「木の枝 規則性」で検索して、一番上に出てきた記事を見てみる。
木の枝の枝分かれには法則性がある。レオナルド・ダ・ヴィンチが観察を通して発見したんだそうだ。
その法則性とは、2つに分かれたら、その先もずっと小枝になるまで2つに分かれ続ける。3つに分かれたらその先も3つに分かれ続ける、というもの。
まじか?木の枝って、分かれ方そんな決まってるのか?
「今まで2つにしか分かれてこなかったけど、今日は奮発して4つに分かれちゃうぞ」みたいなことは木はできないわけ?
全然、枝を見ていないから、真偽のほどがわからない。
しばらく木の枝の写真をネットで眺めてみたが、基本2つに分かれているように見えるけど、3つに分かれているところもあるような、けど、これは近くで見たら、2つに分かれているのが、近くに2つあるから3つに分かれているように見えるのか?
軽いゲシュタルト崩壊を迎えた僕は、引用元を再度眺めた。
『木をかこう』という本で知った。
この『木をかこう!』という本は存在するのだが、リンク先が別の本になっていて面食らったので、読んでいるあなたも上のリンクをちょっと押してみてほしい。
ネット上のリンクが常に正しいものと繋がっているという保証はない。大切なことを思い出させてくれた。
大切なことを思い出させてくれたのは良いのだが、実際のところ、真実はどうなんだ?と思って、『木をかこう』のamazonのレビューを眺めたが、ここに書いてあることを真実とする根拠は何だ?という別の迷宮に入っただけだった。
本に書いてあるから正しい保証はないし、記事の中のリンク先が間違っているから、記事の内容がすべて間違っているわけでもないし、amazonのレビューだって、読み間違えた人が書いているかもしれない。
レオナルド・ダ・ヴィンチが見てきた木の分かれ方が、すべて同じ法則に則っていたとしても、今現在、例外が生まれていないという保証はどこにもない。
人類が到達していない場所にある木は、2つに分かれた後は、3つに分かれ、次は4つに分かれているかもしれない、という結論(?)に至った。
もう少し、自分の目で木の枝を眺めてみようと思う。
◯考えたこと、思ったこと
筆者の記事を読ませていただいて、1分を楽しむためには、その1分でやることを決めてやるということが大切なんだと思った。その決定と行動によって、1分の間、自由を味わうことすらできる。
なるほど。しかし、一つ疑問が浮かんだ。
「ただぼーっと1分過ごすことと、この1分をぼーっと過ごそうと決めてから、そうすることに違いはあるのか?」と。
なので、やってみた。ぼーっと、時計の秒針が1回転するのを眺めてみるのだ。
あなたもやってみてほしい。僕は10秒でやめた。10秒ですらも長いと感じた。
不思議だ。ブログをどんなふうに書こうとあくせく考えていると、時間はあっという間に走り去っていくのに、こうやって僕が立ち止まると、時間は急にゆったりと歩みを進めるようになる。
この現象から言えることは何なんだろう?
しばらく考えてみたが、わからなかった。それらしい理屈をつけて、形だけ整えることはできるけれど、自分が最後に納得しない。
とりあえず、ぐるぐると考えていることに気づいたら、一度時計の秒針を眺めることに決めた。
◯最後に
筆者様、素敵な考え方を紹介してくれてありがとうございました。元気を頂きました。また紹介して下さった写真のおかげで、一つものの見方が変えられたように思います。筆者様のあたたかな想いがより多くの人に届くことをお祈りいたします。